うさぎぼらの仙人たち

本谷川をさかのぼり、うさぎぼらにはいると、大きな石の下に人間が五、六人はらくにとまれる、

自然がつくったねぐらがあります。                                                  

 ときは大正から昭和のはじめのことですが、このねぐらを、すみ家にして本谷のおくにくらした

人がいます。
かれらは、本谷の仙人といわれた、有名なつりびとでした。

 いまでこそ車でかなり谷ふかくはいることができますが、そのころはろくな道もなく、本谷川の上

流にたどりつくには、一日がかりの道のりでした。

 金子のんべいこと、金子儀三郎が、うさぎぼらに住みついたのは大正二年の春のことでした。

それから十余年にわたり、金子のんべいは、本谷川の水面とにらみあって、魚を釣ってくらしてい

ました。

 のんべいは釣った魚を、さとにおりて金にかえ、酒ばかりのんでいました。

りっぱな儀三郎という名があるのに、金子のんべいといわれたのは、酒ばかりのんでいたからです。

 だが、けい流釣りにかけては、この金子のんべいの右い出る人はなかったといわれています。

 ある本には、かれは「テンカラ」釣りの名人で、オッサぶちで釣りあげた「イワナ」は、

二尺八寸(九二、四センチ)もあったと記されています。

 ところで、金子のんべいの生国は、はっきりしておりませんが、わかっていることは、かれが旧家

の生まれでしかも大学まで出ていたとわれています。

なぜ、のんべいが世をすてたのか、それはいまだになぞにつつまれたままです。

 金子のんべいは、よそ者でしたが、遠山谷にもうさぎぼらをねぐらに、魚を釣って生活していた人

がおりました。                                                

 本名は林要之助、むらのしゅうは、要おじいとよんでいました。

 かれも金子のんべいにおとらぬ、けい流釣りの名人でした。

昭和六年の春、この要おじいが、弁天岩の大ぶちで釣りあげた「アメノウオ」は、尺五寸(四九、

五センチ)もあったといいますし、また一日に「イワナ」を八十四本も釣りあげたといわれてい

ます。

 そのころ、さとの子どもが、要おじいのことをつづりかたに書きました。

 要おじいは、からだは小さいが、魚つりではおじいにかなう人はおりません。

おじいが、岩の上に立って、ふちをひとにらみすると、魚はうごけなくなって、みんな要おじいの

釣りばらにかかるそうです。

子どもたちは、一日に百本も魚を釣りあげる要おじいのことをきいて、ただごとではないと、

おどろいたのです。


  霜月祭とむら人のくらし